子供、むかしの記憶
同年代の人が子供の寝顔が愛おしくて
やすらかに眠るこどもにキスをしたそうだ。
とても幸せそうに、とても仔細を語るその人。
なんとも微笑ましい、愛し合う家族のワンシーン。
慈しむべき光景だと思う。
しかし。
同時に血を吐き出しそうなほどの羨ましさに悩まされる。
本当に、この人には幸せになって欲しいと
この人の子供には幸せになって欲しいと思うのにひどく、妬ましくなる。
申し訳ないほどに。
そして、それを必死におおいかくそうと努力する。
私がここまで親からの愛情表現に対して過剰なまでに敏感になるのには心当たりはあった。
こんな思い出がある。
そもそもわが家の父親はあまり家に帰ってこない人だった。
父親が帰ってくるような時間帯まで子供が起きていると「早く寝なさい」と殴られる。
殴られるのはいやだから、子供たちは早々に部屋に閉じこもる。
だから接触がない。接触がないから、お互いに相手を知る機会もない。
とうぜんの結果として、わたしたち子供たちにとって
父親というものはよくわからないものになっていた。
ある日のこと。
家でねむっていたら、いきなり頭に衝撃を感じて目を覚ました。
目が覚めたけれど一体何が起こったのか、何故ねむっていたはずなのに起きてしまったのか、理解できない。
必死になって現状を把握しようと神経をとがらせていると、父親が廊下を歩いて遠ざかるスリッパの音がきこえた。
一緒にねむっていたくまのぬいぐるみを抱きしめ、布団のなかに縮こまりながら
なにも聞き逃すまいと、耳を澄ませる。
と、ドアを開け、足音が長男のねむっている部屋に入る音が聞こえる。
次の瞬間…人の頭を殴る、にぶい音が聞こえた。
そのまま、またスリッパの音…。次は次男の部屋のドアを開ける音、そして…
こどもの頭を殴るおと。
…そこまで聞いて、私の頭はようやく理解した。
(あ。おとうさんに殴られて、目をさましたんだ)
静寂が心なしかはりつめていて、暗闇のなかで怯える私をおおっていた。
何故、父親がねむっている子供たちを急に殴っていったのかはわからないし、知らない。
ただ言えるのは、わが家の父親は気分が変わったりなんとなく、で
よく子供たちをサンドバックにしていたので、理由はなんでもいいのだと思う。
数年後に兄妹間でとうじの記憶合わせをしていると
子供がねむっている隙に父親がなんども子供の頭を殴っていく、ということはかなり幼い(古いもので3歳)頃から
たびたびあった出来事らしい。
……
だから未熟な私はつい自分と比べてしまい、どうしてそこにただ存在するだけで殴られる子供と
やさしくキスをして愛される子供とに分かれてしまうのか、憤りと痛みを感じずにはいられなくなってしまうのだろう。
普通の幸せを目の当たりにして、はげしい劣等感と不公平を感じてしまうのは、本当に、とても申し訳なく思う。
でも、もう私のカテゴリーは「大人」だ。
それとこれとは話は別物。
情けないことに私の中のこどもの私、インナーチャイルドはどうやらまだ懲りずに愛情を求めているらしい。
きっかけひとつでいきなり暴れてなき叫ぶ私のインナーチャイルドさんを、私は頑張って、なぐさめる。